心が風邪をひいたなら

川村整体ブログ 

ロウソクの火は無限に拡がる

🕯ロウソクを、一本、誰かがつける事ができれば、その火は🔥、横の人のロウソクを灯し、またその横の人のロウソクを灯すことができます。

この最初にロウソクの火を灯した人。。

それは、最初に、今のままで自分は幸福であった。。と気づいた人です。

その気づきの灯火を、縁ある人に分けて行く。。

そうすれば、どんどんその場所は、明るくなるのです。

最初に気づき、火を🔥灯した人の火も消えず、火は分け与えた分だけ増えていくのです。。

無限に。。

 

私達は、こうなったら幸福。。と、勝手な基準を頭で作り上げてしまうのです。

特別な事が幸福だと思う。。だから特別な幸福を獲得する為に頑張るのです。

 

しかし、幸福という基準の裏側には、10円玉を製造すると、必ず裏表ができる様に、こうならなかったら不幸。。という人工的に不幸を創り出している事に気づく必要があるのです。

本当は、あればよし、なくても良し。。生きて良し、死んでよし。。と、相対する相反するものが、幸福と不幸を分けるものではなくて、どちらも分け隔てなく与えられし幸福であった。

と気づく事。

例えば、生まれつき足がない人は、五体満足が幸福だと考えている人にとっては不幸となります。。

五体満足な人は、生まれつき足がない人を、不幸だと思い、可哀想だと思い、その人の為に手を差し伸べるかもしれません。

車椅子の👩‍🦽人は、助けてくれてありがとう😊と、言ってくれるでしょう。。

 

しかし、僕は思うのです。

もし自分が生まれつき足がなく、車椅子の生活者だとして、可哀想な不幸な生い立ちの人だという目で見られて、手を差し伸べられる事が嬉しいだろうか?

そして、そういう気持ちで、手を差し伸べる五体満足な人の心は、清々しいだろうか?

 

僕も若い頃、東京駅で、盲目で杖で歩いていた若い男性に声をかけ、高速バスの乗り場に行きたいというので、肩を組んで連れて行ってあげたことがあります。

彼は、乗り場に到着すると、僕にありがとうございます😭と、お礼を言ってくれたが、どうも清々しい気持ちになれない。。

確かに自分は、今、障害者の為に、勇気を出して行動を起こしたはずなのに。。

人の為に行動したはずなのに。。しかもお礼もされた。。

 

それは、障害者を哀れみ、見下す自分の心を感じたからです。

やってあげたよ。。俺、いいやつだろ。。みたいな心も、、

自分の心が美しくないと感じたのでしょう。。

人の為に何かをした事イコール、心のロウソクに火🔥が灯るとは限らんのです。

 

最近は、パラリンピックで、障害を持った人が、健常者同様に活躍してくれています。

パラリンピックの選手は、きっと、自分は障害があるから不幸。。という人生から、障害があるから不幸ではなかった。。障害はあるが、自分は幸福だった。。と、気づいてくれたてロウソクの火を最初に🔥灯してくれた人達です。

そういう人達を見て、他の障害を持つ人の心にもロウソクの火が灯り、それだけではない、、五体満足な私達も、車椅子の選手を差別しないで見れるようになった。

見下したり、哀れんだりした目で見なくなった。。

むしろ尊敬さえできるようになった。。

これは、五体満足な人達にとっても救いです。

五体満足な人のろうそくの🕯火を🔥も、灯してくれたのです。

 

私がいつも、人の為に生きるのではなくて、自分の為に生きる事。。それこそが同時に、人の為にも生きている事です。。

という意味。。

皆さんが、それぞれに、自分の生まれ持った、与えられし宿命。。

それを、このままで幸福だった。。という気づき、ロウソクの火を❤️‍🔥灯して欲しいのです。

それを、その光、火を🔥、隣人に分け与えてあげて欲しい。。

人の為に生きるより、1人1人が、自分の為に、自分のろうそく🕯に火を灯す。。その火❤️‍🔥は、無限に分け与えられるのです。

まず自分がロウソクに火を🔥灯す事。。それが自分の為に生きる。。という事です。

本当の利他業とはこの事です。

何も自分の所有物を、隣人に分け与え、自分の所有物を減らす犠牲の精神が利他業では無い。。

それは情の世界です。

情の世界は有限です。

与えるものが無くなれば、もう与え続ける事ができません。

つまり拡がらないのです。

 

 

しかし、気づきを与えるのは無限です。ロウソクの火の如くです。

あってもなくても幸福であった。。

これに最初に気づいた人が、その気づきの火🔥を、分け与えて行く事。。

そこに、幸福な人と、不幸な人との区別は消えるはずです。

だから平等と言えるのです。