人は何の為に生きるのか。
これは多感な時期に誰もが持つ疑問であり、その疑問を持つ事が自然な事です。私も、高校一年の時、この疑問のスイッチが入り、それからは、その答えを探す毎日となりました。
しかし、どんな本を読んでも、誰に聞いても、新興宗教団体に所属してみても、その答えは見つからないのです。
だから暫くの間、人は幸福になる為に生きているのだ。幸福になる為に努力するのだ。
と、自分に言い聞かせて無理やり納得させてきましたが、ある人の本を読んだ時に、その概念が、間違いである事を知りました。
その人は、仏教思想を、仏教用語を使わずに、わかりやすく説いてくれた方です。
それがとても、染み入ってきた。。スッキリ受け入れられたのです。
結論から言ってしまうと、人は何かの為に生きてる訳じゃなくて、ただ生かされている存在です。お釈迦さんの手の掌の上です。しっかり計算されて無駄のない毎日を仕向けられ、それを受け入れて生きている無為の存在です。このただ生かされている事を、有り難く受け入れながら、今ここを生きている中に、真の幸福があり、その幸福に気づいていける様に、運命という修行が用意されています。、その人、その人にとって、一番、真の自分を獲得しやすい経験の順番、出会いの順番が、決まっている。。
これをゴールデンプログラム。と言った人がいました。
例えば、整体の師匠が、弟子に整体を教える時、その弟子が、一番その人らしい整体を出来る様になるように、何から教えていこうか?何を伝えていこうか?どういう順番でやって行こうか?何を間違わせるか? を考えると思います。
それが、宇宙の法則が組んだ、その人、その人の、運命です。
運命に、優劣もないし、幸、不幸も無いのです。
自転車はこけて乗れる様になる。。何度も言いますが、こけないと、真の自分、真の幸福という 自転車に乗れる様にならないのです。
だから、運命の中には、あえてこけさせる場面が、たくさん散りばめられているのです。また過去世の清算の為、辛い症状が出る人もいます。。でもそうやって過去世を清算しているのですから。。自転車になんか乗れるはずがない。。という思い込みを、症状で消しているのです。だからいかなる時も、運命を怖がる必要はないのです。
その運命の中で、こけながら、こうするとこける。。だからこうすると乗れる。。
を、日々気づいていけば、真の自分、真の幸福自転車に、乗れる様になるのです。
乗れる様になったら、ペダルをこいで、走ってみましょう。。
ペダルは自分でしかこげません。他人はこいでくれません。占い師もこげません。
これは頂いた今日を有り難く生きてみる事です。身体を使って、全身全霊で。
一所懸命です。
すると、今まで体験した事のない風の気持ち良さを感じるでしょう。。
その風こそが、真の幸福であり、その風は、自転車に乗れる様になった全ての人が、感じられる。。同じ風です。同じ法則のなかで生きている。。同じ空気の中で、生きている。。地球全体で、同じ空気を吸って生きている。一つの存在だと気付くのです。
その気づいた世界が愛。。合う 。合気道の、気が合うという意味。それが愛です。
自他を超える。。自分は全てであり、全ては自分であると分かった時、合う。。愛が見えるのです。他人の事も自分の事として愛おしく感じられる次元です。
人は何の為に生きているのか? 自転車から降りて、頭でいくら考えても答えは無いのです。
あえて人が何の為に生きているか、生かされているか?と言えば、最初から与えられているが見えない風 真の自分、真の幸福、真の愛に、自転車に乗る練習をしながら、気づいていく為です。
最初から与えられているが、それに気付くには、修行がいる訳です。
道元さんも言っていますね。
人は最初から悟っている存在。だからこそ修行するのだし、修行さえ辞めなければ必ず悟れるのだ。。と。
ここのミソは、悟る為に修行するのではなく、最初から悟っている事に気づく為に、修行するという 事です。
自転車に乗れる様に修行するのではなく、最初から自転車に乗れる自分に気づくのに、乗れないという思い込みを捨てていくという修行中です。